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​お知らせ

境目の地=縣(延岡)

  • ru0224
  • 9月27日
  • 読了時間: 3分

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延岡史談会の公開講演会に参加しました。

講師は、宮崎市教育委員会文化財課市史編纂室専門員の新名一仁先生です。


「戦国島津氏と縣(延岡)」


専門的すぎて、難しかったです。

資料をいただいたので助かりますが、資料も膨大でまとめるのに苦労しますが、延岡に関係する大事な要点をまとめますと…。


縣荘(現在の延岡市南部周辺)は、中世から近世にかけて日向国の要衝として発展しました。

『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』によれば、「縣荘」は臼杵郡内に属し、建久年間には宇佐宮領の荘園として記録されます。その後、豊後から移住したとされる土持氏が地頭となり、縣土持氏として成長しました。やがて縣は、土持一族の中核拠点となり、戦国時代には島津氏・大友氏・伊東氏の抗争の舞台に組み込まれていきます。


土持氏はしばしば大友氏と島津豊州家との間を仲介し、情報伝達や外交交渉に関わるなど、国人領主として地域秩序を支える役割を果たしました


16世紀初頭、日向南部は伊東氏・北郷氏・島津豊州家の抗争が続いていました。

この時期、縣は大友氏の勢力圏と薩摩の勢力圏の「境目」にあり、地域の安定は土持氏の動向に大きく左右されました。


島津奥州家が衰退し、相州家(日新斎・忠良)が実権を握る中、戦国大名島津氏が形成されます。この内紛の過程で、土持氏は島津・大友の双方と関係を持ち、外交ルートを提供。土持氏は飫肥島津家(豊州家)との結びつきが強く、伊東氏と対立する場面が増えていきました。


1572年 木崎原の戦い…

伊東氏が大敗し、島津氏が日向制覇へ進出する契機となりました。

この頃、縣土持氏は大友氏の支配下を意識しつつも、伊東氏への不信から次第に島津氏へ接近していきます。

1577年 伊東義祐の没落…

佐土原城を退いた伊東氏に代わり、島津義久が都於郡城に進駐。

縣土持氏はすぐに島津へ従属を表明し、甲冑や刀を献上しました。

1578年 耳川合戦…

大友宗麟が大軍を率いて日向に侵攻。縣も戦場となり、土持親成は大友・島津双方から働きかけを受けますが、最終的に島津氏への忠誠を誓いました。

耳川合戦で大友氏が壊滅すると、縣土持氏は島津幕下の一国衆として組み込まれていきます。


縣(延岡)は、中世から戦国期にかけて常に「境目の地」!!として重要な役割を果たしました。

豊後大友氏と薩摩島津氏の間で情報・外交を仲介する拠点となり、伊東氏との抗争においては、地域情勢を大きく左右する存在でした。島津氏の九州制覇に向けた過程では、最終的にその支配下に組み込まれました。


🌟縣土持氏の動向を通じて見ると、延岡地域は単なる地方の一勢力ではなく、九州の戦国史において大きな意味を持つ「要衝」であったことが理解できます。


延岡目線で読み解くと、面白い!


 
 
 

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