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​お知らせ

2025年9月27日

#延岡フードロス対策実行委員会 主催の、「余剰から希望へ ~フードロス削減と子ども支援の可能性~」に参加しました。

私は、先日の議会一般質問で、「#フードバンクを通じた子ども食堂緊急支援事業」について質問しましたが、ひとり親家庭が増え貧困率の高い宮崎県だからこそ、最も困窮している家庭へしっかり届くよう質問をしました。


今回のシンポジウムでは、#フードロス削減 と #子ども食堂 の取り組みが、環境や地域コミュニティの活性化にもつながることを再確認できました。

興味深かったのは、

「貧困について、学校の先生の貧困の視点と福祉のプロの貧困の視点は違う。学校の先生は(生徒の)服装など見た目で判断し、福祉のプロは権利を見ている。#国連 は、権利が保障されていないことが貧困だと説いている。」


つまり、経済的困窮だけでなく、教育や医療を受けられない、人としての尊厳が守られない、社会参加できないといった状態こそが貧困だと位置づけているんです。


現在、パッチワーク的に子ども食堂が点在しているが、連帯が大事だ…とのご意見。

「今こそ、#ムーブメント を!」と締め括られました。


今後の子ども支援の取組みにも活かしていきたいと思います。



#看護連盟県北支部連合会 の研修に参加し、大変勉強になり、自分の活動を振り返る時間となりました。

講師は、#訪問看護ステーション陽のひかり #日野亮司 さん。

これまで障がい者やその家族に対する行政支援について、いろいろと活動してきました。

今日の講演で思い出しながらですが、

・#救急搬送時情報共有システム「#QaaS(#カース)」が紹介されましたが、私が市議の時、聴覚障がいの方々と消防長へ「聴覚障がいがあり、119へ依頼が困難なので、携帯アプリで位置情報や救急車か消防車の依頼かがすぐ分かるシステムを導入して欲しい」と要望書を提出したことがありました。議会質問もしましたが、県内初で「#NET119」を導入いただきましたが、さらに前進し「カース」という便利なアプリが。

・#個別避難計画書 の認知度が低い件に関しては、映画「#星に語りて」を観た際に、#東日本大震災 で障がい者の死亡率が健常者の2倍に上ったことより、この計画書を強化するように議会で質問しましたが、さほど進んでいないようで、引き続き要望していかないといけない。

・#医療的ケア児(者)の避難訓練を動画で見せていただいた。以前、台風災害の際の避難について、停電時の人工呼吸器や吸引器など機械の充電器対応について質問したのを思い出しました。先程の計画も充電対応も宮崎市が進んでいますが、今一度、避難に対して積極的な行政支援をお願いしていきたいです。

・県北地区は医療的ケア児の #ショートステイ など対応が遅れているとのご指摘。6年前、宮崎県医師会の先生方との懇親会で、日高博之県議と一緒に延岡共立病院の赤須医師に、ショートステイを要望した際、「分かりました」と即答いただき、県や市との話し合いも進み、県北初で設置いただきました。その後、2ヶ所目として延岡市医師会でも設置。しかし、それでも県北地区は少ない状況。今日、知りましたが、さくら園も閉園されたそうで。受け入れ対応が急がれます!


最後に、自見はなこ先生から情報いただき、看護連盟推薦の石田まさひろ参議院議員など有志で国会議員308名の署名の元、財務大臣や厚生労働大臣、内閣府特命担当大臣に「医療、介護、福祉の現場を守る緊急要望」が提出されたことをお伝えしました。これは、物価高や賃金アップなどによる逼迫した医療、介護、障がい、福祉の状況を改定などに反映させることを要望しています。

また、自見はなこ参議院議員に宮崎県へ来ていただき、医療的ケア児(者)を考える研修を予定していることもお伝えしました。


宮崎県北の医療、福祉、頑張りましょう!



延岡史談会の公開講演会に参加しました。

講師は、宮崎市教育委員会文化財課市史編纂室専門員の新名一仁先生です。


「戦国島津氏と縣(延岡)」


専門的すぎて、難しかったです。

資料をいただいたので助かりますが、資料も膨大でまとめるのに苦労しますが、延岡に関係する大事な要点をまとめますと…。


縣荘(現在の延岡市南部周辺)は、中世から近世にかけて日向国の要衝として発展しました。

『日本歴史地名大系 宮崎県の地名』によれば、「縣荘」は臼杵郡内に属し、建久年間には宇佐宮領の荘園として記録されます。その後、豊後から移住したとされる土持氏が地頭となり、縣土持氏として成長しました。やがて縣は、土持一族の中核拠点となり、戦国時代には島津氏・大友氏・伊東氏の抗争の舞台に組み込まれていきます。


土持氏はしばしば大友氏と島津豊州家との間を仲介し、情報伝達や外交交渉に関わるなど、国人領主として地域秩序を支える役割を果たしました


16世紀初頭、日向南部は伊東氏・北郷氏・島津豊州家の抗争が続いていました。

この時期、縣は大友氏の勢力圏と薩摩の勢力圏の「境目」にあり、地域の安定は土持氏の動向に大きく左右されました。


島津奥州家が衰退し、相州家(日新斎・忠良)が実権を握る中、戦国大名島津氏が形成されます。この内紛の過程で、土持氏は島津・大友の双方と関係を持ち、外交ルートを提供。土持氏は飫肥島津家(豊州家)との結びつきが強く、伊東氏と対立する場面が増えていきました。


1572年 木崎原の戦い…

伊東氏が大敗し、島津氏が日向制覇へ進出する契機となりました。

この頃、縣土持氏は大友氏の支配下を意識しつつも、伊東氏への不信から次第に島津氏へ接近していきます。

1577年 伊東義祐の没落…

佐土原城を退いた伊東氏に代わり、島津義久が都於郡城に進駐。

縣土持氏はすぐに島津へ従属を表明し、甲冑や刀を献上しました。

1578年 耳川合戦…

大友宗麟が大軍を率いて日向に侵攻。縣も戦場となり、土持親成は大友・島津双方から働きかけを受けますが、最終的に島津氏への忠誠を誓いました。

耳川合戦で大友氏が壊滅すると、縣土持氏は島津幕下の一国衆として組み込まれていきます。


縣(延岡)は、中世から戦国期にかけて常に「境目の地」!!として重要な役割を果たしました。

豊後大友氏と薩摩島津氏の間で情報・外交を仲介する拠点となり、伊東氏との抗争においては、地域情勢を大きく左右する存在でした。島津氏の九州制覇に向けた過程では、最終的にその支配下に組み込まれました。


🌟縣土持氏の動向を通じて見ると、延岡地域は単なる地方の一勢力ではなく、九州の戦国史において大きな意味を持つ「要衝」であったことが理解できます。


延岡目線で読み解くと、面白い!


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